千日回峰行という修験道の荒行を達成された、塩沼亮潤氏の対談『大峯千日回峰行 - 修験道の荒行』(塩沼亮潤・板橋興宗/春秋社)を読みました。 比叡山でも千日回峰行は行なわれていますが、塩沼氏は奈良の吉野、金峯山寺で修行なさったそうです。金峯山寺の千日回峰行では数年かけて地球を一周する距離を歩かれるそうです。往復48km、標高差が1,300mもある山の中をです。一度始めると途中でやめる事は出来ません。やめるという事=死を意味し、そのための短刀などを携帯しているそうです。また詳しいことは省略しますが、千日回峰行はお不動様の修行だそうです。 本は塩沼氏の子供の頃の話から始まるのですが、家はとても貧しく、けれどもいつも人に囲まれ笑いに満ちていたそうで、こういう話を聞いていますと、生活に必要なお金は必要だというような言葉すらも褪せてしまうほど、人の縁というのは大切なものだなと思います。 高校を卒業されて(準備期間を経られて)千日回峰行へと臨むわけですが、これほどの命をかけた修行をするに当たって、師弟のあいだでとても大変なやりとりがあるのかと思っていましたが、「山を歩きたいのですが」「どうぞ」という程度のものだそうで、あとはそれこそ自分との修行だそうです。 千日回峰行の修行について間違ってはならないのは、この修行は自分だけのためではなく、他人のための利他行だということです。 千日回峰行の後にも、断食・断水・不眠・不臥で九日間お堂に籠もり修行する四無行、また塩(命に関わります)や五穀を長い期間断ち臨む八千枚護摩供なども修行されました。そしてこれらの修行を終えられた塩沼氏は、大阿闍梨さまと呼ばれています。 千日回峰行をはじめとしたこれらの修行は普通の人間にとってとうてい成し遂げることは困難ですが、ただこの修行を終えられた方々がそのまま仙人のようになってしまうのではなく、一人の人間として私たちのあいだに再び戻って来て下さるということに、普通の人間にも備わっている可能性(ここでは仏性でしょうか)を信じさせてくれるような、そんな深い意味があるような気がします。このことは、ブッダも一度は苦行を経験し、そして、快楽との両極端ではなく“中道”という教えを人々に交わりながら説いた、ということに繋がるのだろうかなと思います。