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夏の思ひ出(その1)

 8月から9月へと暦が変わる日に、夏の旅行に行きました。  最初は静岡県の清水にある東海大学の水族館へ。いい水族館だと聞いていましたが、なかなかマニアックな展示方法がしてあり、とても良かったです。今回は深海生物の標本展示をやっていました。今日は朝まで別の所へ行こうと思っていましたが、予定を変更して行って良かったです。  昼を過ぎて水族館を出発し、目指すのは西伊豆の岩地というところ。なまこ壁などで有名な、松崎(『世界の中心で愛を叫ぶ』の舞台となった場所だそうです)の少し先です。駿河湾をまたいで海の向こう側ですが、3時間くらいで到着しました。民宿に荷物を置いて、歩いてすぐの浜辺へ。しばし写真を撮ったりぼーっとしていました。  民宿からは海が目の前です。夕焼けを眺め、お魚づくしの夕飯をいただいて、波の音を聞いていたり、空を見上げてみたり。一度サイレンが鳴り津波注意報が出ていましたが、影響は何もなかったようです。お風呂は温泉で、なめるとしょっぱいお湯でした。夕方までとても蒸し暑かったですが、夜になると気温は下がり、波の音を耳に眠りにつきました。

アラーキーの写真展&写真集

アラーキー(荒木経惟氏)の写真展に、久しぶりに行きました。前に行ったのは確か江戸東京博物館で行われていた「東京人生」。「彼岸」写真展はけっきょく行っていないし。 RAT HOLE GALLERY(港区南青山)で行われている「センチメンタルな空」展。 バルコニーで撮られた空の写真がエンドレスに流れていました。また『センチメンタルな旅・冬の旅』の最後のページのチロちゃんなどの、バルコニーでの写真も展示されていました。 帰りは原宿まで歩いて帰りました。この辺りを歩いたのも久しぶりですが、ルイ・ヴィトン草間彌生さんの展示とか面白かったです。何かのイベントがあったからか、原宿は人が多かったです。 写真集も買ってきました(右)。最初から最後まで空の写真集です。 そして、この空を取り続けられていたバルコニーの写真集『愛のバルコニー』が出ていることを不覚にも知らなかったので、さっそく本屋に行って買ってきました。このバルコニーと荒木氏の人生が綴られた写真集です。とてもいい写真集です。

晩夏

 秋の虫が鳴くようになってきました。夜吹く風には秋の気配が漂っています。   いつもメインで使っているカメラ(RICOH GR DIGHTAL II)は、レンズの中かCCDの前(?)にホコリが入ってしまったようで、レンズの絞りを開けても中心にゴミが写ってしまうようになってしまいました。五年保障の期間内だったので、とりあえず修理(見積)に出しました。  空を綺麗に撮りたいので、ホコリが写っているとものすごくがっかりしてしまうのですが(他人の写真でも気になってしまいます)、どうしても嫌なら防水のコンパクトカメラとかにするしかないのかなぁ……。フィルムならレンズ内とかにゴミが入っていなければ、ひとコマだけで済んだ話なのに…。  星が綺麗に見えたので、久しぶりのひとり天文部。夏の大三角がよく見えています。  こちらの写真を撮ったカメラは一眼レフ(PENTAX K-100D(中古))で、単三電池をバッテリーに使うのでいいかなと思っていましたが、もうずっと、バッテリーがすぐなくなる症状(あとこっちもホコリ問題)が出ていて、使用頻度が激減しています。電池を新しくしてもダメなので、こちらもどうしようか迷っています…。 ハクチョウ座(左下がデネブ?)

映画『ニッポンの嘘』

 原爆、水俣病、安保、学生運動、三里塚、自衛隊、兵器産業など問題を扱ってこられた、報道写真家、福島菊次郎氏のドキュメンタリー映画『ニッポンの嘘』(http://bitters.co.jp/nipponnouso/)を観てきました(8月10日)。  現在91歳でいらっしゃるそうですが、原発事故後の福島へも足を運んでいらっしゃいます。歩いたり筋力を使うことはさすがに若い頃のようにはいかないようですが、被写体を捉える目と、カメラを一瞬で構えて撮影するその姿、写真を撮るという行為に関しては、全く衰えを知らないのではないかと思えます。 4年前の講演会で拝見した時よりお若くなっているのではないかとさえ思いました。(すっかり忘れていましたが、2008年の講演会の記事を書いていました)  福島氏の言葉には考えさせられることが多いのですが、『問題自体が法を犯しているなら、カメラマンは法を犯しても構わない』とは、とても強烈でした。  この映画を観て、自分にとっての“写真というもの”は、ただ美しい、とか、ただ楽しい、とかではなくて、人間や社会の本質に迫ろうとする、ジャーナリズム的なものなのだなということを改めて感じました。どうしてそういうものに惹かれるのかと自問したときに、人間とはいったい何なのか、ということに繋がるためのツールになるからではないのか、との思いが浮かんできました。