津波の傷痕と人々の力の大きさ‐震災遺構を訪ねて
東日本大震災から12年以上が経った。
わざわざ思い起こしてみるまでもなく、地震当時の自分自身の状況やニュースなどで見た映像などは、それに関連する情報を見たり聞いたり、また直接の関係はなくても、自衛隊の車両を見たりだとか、家で魚を飼っていたため熱帯魚店へ行った時だとか、いろいろな折に触れて頭に浮かんでくる。また多少ながら震災に関連することに触れる機会があったものの、実際に被災地を訪れたことはなく、結局は安全な場所から高みの見物をしている単なる傍観者なのだろうと、ずっと後ろめたいような気持ちがあった。そんな中途半端な気持ちを持ち続けているせいか、自分の中ではある意味、当時から時が止まっているような気もしていた。そして三陸地方への旅行は何度か計画を立てていたが、なかなか実現させられず時だけが過ぎていった。
原発事故という人災も含めた東日本大震災は、多くの日本人にとって大きな節目だったはずだと思っていたのだが、そのうち世の中はどうもそうでもないらしいと思うようになった。狭いと思っていた日本はあんがい広く、人の心も実に多様で、個人が捉える温度差や冷め方の差は激しい。そしてその後に訪れたコロナ禍で世情はがらりと変わったのだろう。
ただ、世の中や他人がどうであれ、地震や津波がもたらした被害はどのようなものだったのか、そしてどのように復興しているのか、自然の力とそこで生きる人々の力をこの目で見てみたい。そんな思いを持ちながら、力になれなかった小さな人間の、ひとりよがりのせめてもの罪滅ぼしとして、宮城県の震災遺構を訪ねた。
三陸沿岸道路
東北自動車道を北上し、宮城県の仙台方面から東へと車を走らせる。この仙台から青森県の八戸まで続く高速道路は三陸沿岸道路で、2021年に全線開通したそうだ。三陸道と呼ばれている。
途中、日本三景の松島が見えるかと期待していたが、道路は海よりずいぶん陸側を通っているため、海は見えなかった。
三陸道を走る車は思っていた以上に多かった。トラックも多い。そのほとんどがこのあたりのナンバーだが、県外の車もあった。
まずは河北インターチェンジを下り、大川小学校へ向かった。
大川小学校(宮城県石巻市)
北上川の右岸の道路を、川の流れに沿うように河口へ向かって走っていく。川は広く、その水面は綺麗な青だった。
川に架かる橋が見え、そのすぐ近くに大川小学校はあった。駐車場に車を止め、道路をまたいで小学校へと向かう。
窓がなくなり、天井の鉄骨がむき出しになり、黒板が見える壁のない教室。濁流が襲い、多くの人の命を奪っていった。体育館は建物ごとなくなり、そこへ繋がっていた渡り廊下を支える太い柱は折れ曲がっていた。当時の小学校は大量の土砂や瓦礫に覆われていたようだった。津波の威力に言葉を失うばかりだった。
野外ステージの壁に描かれた絵、花壇に植えられたパンジー。シャッターを切る音が誰もいない校舎に響き渡った。
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大川小学校 |
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大川小学校 |
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大川小学校 |
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大川小学校 |
学校のすぐそばを流れる北上川。この川を何メートルもの高さとなって津波が遡ってきたと想像すると、いったいどれだけの量の水が押し寄せてきたのかと思う。
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北上川 |
川に架かる橋を渡り北へ、海岸沿いの道路を気仙沼へと向かう。道路は海岸の近くを通ったり山の中を通ったりし、所々で小さな港や海が見える。道路の脇には津波の浸水箇所を示す看板があり、こんな場所まで津波が来たのかと想像しながら走っていると、とても恐ろしいものを感じた。
南三陸町震災復興祈念公園
時間の関係で車で通り過ぎただけとなってしまったが、車の窓越しに防災対策庁舎の骨組みだけになった遺構が見えた。避難を呼びかけ続けたこの庁舎も津波に襲われ、多くの職員の方が亡くなっている。骨組みだけが残った遺構の姿が心に残った。公園の近所にはお店があったようで、人々の姿が多く見られたのが印象的だった。
ここから三陸道に乗り北へ向かう。次の震災遺構へ向かう予定を変えて、先に気仙沼で昼食をとることにした。意外にも車の多かった気仙沼。そして昼食後に南へ20分ほどの岩井崎へ。
気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館(旧気仙沼向洋高校)(宮城県気仙沼市)
震災遺構となっている気仙沼向洋高校。施設を入ると、まず震災当時の津波の映像を見ることになる。大きなスクリーンに映し出されるのは震災当時見た記憶のある映像、そして初めて見るような映像もあり、それらの音声からは津波が街を破壊しながら引き起こす音、船のワイヤーの切れる音、緊迫した人々の声が聞こえ、なかには泣き声もあり、津波を目の前にした人々の恐怖が現実感をもって襲ってきた。
思い起こしてみると、普段からテレビの音をあまり大きくしていないので、ニュースで流れていた映像からは、人々の声などがよく聞こえておらず、ただ映像を見ていただけだったのかもしれない。聴覚という感覚がひとつ追加されると、感じ方が違ってくるようだった。
この高校の校舎は、流れてきた建物が4階の壁面にぶつかるほどの高さにまで津波に襲われたが、生徒などはすでに高台へ避難しており、亡くなった人はいなかったようだった。ただ高台といっても、高校からはずいぶん離れた場所で、よく全員無事で避難できたものだと率直に思った。高校に残った教職員も無事だったようだ。
校舎は一部を除き見学できるようになっており、映像を見たあと巡る日の陰った通路や階段は肌寒く、上着を車に置いてきたのを後悔するほどで、雪の舞い散るような震災当時の3月は、想像できないくらい寒かっただろうと思いを馳せる。教室には流れ込んできた車や瓦礫、それに元からあっただろうパソコンや本などが散乱していたが、窓のないベランダから暖かな西日が差し込み、穏やかな時間が流れているようだった。
屋上から眺めると海はずいぶん遠くにあるように見え、それが多くのものを破壊し、そしてまさかこんなに高い場所にまで押し寄せてきたとは、とうてい想像できない。
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光明寺 |
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みちびき地蔵 |
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海に出ると夕暮れの近付く空に月が昇っていた |
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船と紅葉 |
復興祈念公園(宮城県気仙沼市)
地震の日は東京都内のビルの一室にいた。幸い被害と呼べるようなものはなく、停電することもなかったが、当時からTwitterはあったものの、いったい何が起きているのか情報だけが不足していた。携帯電話のワンセグでニュースを見ても同じことを繰り返すばかりだったように記憶している。部屋を出て見る道路は車が渋滞し、歩道は駅へ向かう人であふれていた。沿岸部では煙が上がっているようだった。そんな状況でも家が近い人は歩いて帰っていったが、やがて暗くなり、普段から机に入れていたクッキーを食べ、ダンボールを敷いて寝られるようにだけはしていた。
そして、ニュースから流れてきた気仙沼の状況だという映像。何が映されているのだかわからない黒と赤だけの画像。それは黒い海と炎の赤だった。それが気仙沼の印象であり、強烈に脳裏に焼き付いた。夜が明けると次第に、津波が沿岸部を襲う映像が流れてくるようになった。気仙沼も同様で、堤防を乗り越えてきた黒い水が車や家まで押し流し、あたり一面が瓦礫の山となっていく。
街のすべてが灰色に破壊され、陸に大きな漁船が乗り上げている光景、そのようなものが気仙沼の印象として残っていた。
訪れた気仙沼は当時のニュース映像のようなものを感じることはなく、よく整備された港街という印象だった。復興しているというニュースは目にしているので当然ではあるが、どこかほっとした。訪れた飲食店では、一時期は仮設店舗で営業し、現在の場所で店を開くことができたという話も聞いた。ただ、街中に門のようなものがいくつかあり、おそらくこれが津波などの流入を防ぐ役割を果たすのだろう。
夜、岸壁を歩いてみた。ホテルを出た時は風が冷たかったが、海岸沿いは風もなく寒さを感じなくなった。岸壁にはカツオを獲る大きな漁船が何隻も係留され、遠くには気仙沼湾をまたぐ三陸道の橋がライトアップされていた。
気仙沼湾と街を見渡せる復興祈念公園。何事もなかったような穏やかな光景が広がっていた。湾の奥から山へ向かう土地にも真新しい街が広がっていた。
碑に刻まれた多くの方の名前。あの津波の映像の時にまさに津波に飲まれていたのだろうと思うと、とてもいたたまれない。
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復興祈念公園 |
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復興祈念公園(中央左奥に見えるのが大島) |
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復興祈念公園 |
人々の力の大きさ
一度行って見ただけでは、津波の恐ろしさや震災が人々の営みにもたらした影響のほんの上辺をなぞっただけかもしれない。それでも、道中で見た光景や感じた空気などは、やはり現地に行かないとわからなかった。
そして、ニュースで見たあの生きていくだけでも絶望的に思える光景のなか、これまで生を営んでこられたことに対して尊敬の念を抱くとともに、街を立て直してきた人々の力の大きさを感じた。
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