スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

秋の公園へ

 晴れた秋の草っぱらでは、バッタやチョウや小さな虫が飛び交っていた。  止まったシジミチョウを見ていると、羽の縁が破けたようにぼろぼろになっているものもいて、その姿が痛々しい。越冬するのか、それとも冬までの命なのか。  見たことがないチョウが飛んでいるなと思い、止まったところに近づいてみると、羽の表と裏でこんなにも色の違うチョウ。どうやらウラギンシジミという名前のシジミチョウの仲間。シジミチョウの仲間にしては大きいチョウだった。  トンボの赤色も鮮やかだった。

秋の空

 暑さ寒さも彼岸まで。今年も秋の彼岸に入りずいぶんと涼しくなってきた。空の様子もすっかり変わった。そして秋の花粉症(寒暖差アレルギーかとも思うが目がかゆい時もあるのでやはり花粉症か?)も真っ盛り。

クルマド

土曜日はボストン美術館のジャポニスム展で世田谷美術館へ。夏の名残で、東京湾か房総半島の方に、また関東北部方面にも入道雲が出ていた。 行きと帰りに川沿いの道でクルマド(※クルマドはアラーキー/荒木経惟氏のコトバです)。 日曜日は森麻季さんのソプラノ・リサイタルで江戸川区総合文化センターへ。新小岩の駅に降りたのはいったいいつぶりだろうか。いや本当は平井か小岩で、新小岩には降りたことはなかったかもしれない。総武線の窓からクルマド。 コンサートは森さんの歌声とピアノの山岸さんの演奏。今度はもっと近くで聴いてみたい。

夏の終わり

 ここ最近涼しくなり、すっかり秋の気配に。日中は蝉も鳴いているが、夜中に鳴くことはほとんどなくなった。秋の虫の声だけが聞こえる。  夏の終わりが近づくと、「暑かったけど、短かったよね、夏」という稲村ジェーンのCDの言葉(映画のセリフ?)をいつも思い出す。思い出すというより、この言葉を思い出す余裕が生まれる、といった方が正しいか。

広島、戦争

2014年8月9日  『夕凪の街 桜の国』(こうの史代さん)が目に止まり、久しぶりに読み返した。広島の原爆が題材のマンガ。本の中にもあるけれど、誰かに、死ねばいい、死んでも構わないと判断されて原子爆弾を落とされたのは確かだと思う。  けれど人間として生まれたからには、誰にとってもそんな悪意を持たれるおぼえはない。ましてや国に対して向けられた悪意、敵意を、一般庶民が引き受けるなどという悲劇は繰り返してほしくない。  悪意ということに関しては、戦争だからということではなく日常においてもそうだろう。心をてのひらに取り出し、佛教でいうところの三毒を、再び生まれることのないように削り落としたい。  またいつも疑問に思うのは、ニュースの報道で耳にする、沖縄は、広島は、長崎は…慰霊の日を迎え云々というセリフ。日本のどこで同じような惨劇が起こっていてもおかしくはなく、またひるがえって他の場所でも空襲は繰り返されていたのに、なぜ地域限定のようにするのか。  亡くなった人々は、自分と、つながる人間の身代わりであるような気がしてならない。今生きているのは、そんなものを偶然まぬかれただけではないのだろうか。  また雨が降ってきた。  風が止まる夕暮れ時、高台から遠く眺めた穏やかな瀬戸内海と島々。夕凪の広島の記憶。 2014年8月10日  『東京の戦争』(吉村昭氏)読了。戦中・戦後の市民の暮らしを、筆者の目を通して追体験しているかのように感じる回想録。最近は、こういった時代や背景をだんだんと身近に起こりうるものとして感じられるようになってきたので、歳を重ねるのは悪くはない。  『戦争を知らない子どもたち』という歌の、戦争を知らずに僕らは生まれた〜♪という歌詞を子供の頃に聞き、戦争を全く知らない自分に長い間ずっと負い目を感じていたが、世間のオトナだって誰も知らないし知ろうともしていないと気付いた時の、あの虚無感は忘れられない。  そうでない人も大勢いることを知ることができたのも、歳を重ねてよかったと思うこと。

久しぶりに虹を見た。 雨が上がり西日が強くなってきたので、ひょっとして虹が出るのではないかと外を見てみると、やはり虹が出ていた。 半円形の二重の虹で、内側の虹の内側はさらに細かい虹になっていた。 「レイン、ボウ」と口に出してみる。RAIN BOW。雨の弓か。虹が似合うのはやはり南の島だろうか。 消え入る虹を見ながら、想いは遠く南の島へ飛んでいく。 69年前の昨日は、日本が戦争に負け、第二次世界大戦が終わったとされる日。多くの人々が船や飛行機で南へ向かい、そして二度と帰ってはこなかった。 南の島で、雨上がりに虹を見ただろうか。 そしてその虹は美しかっただろうか。 2014年8月16日